大和サバイバー・石田直義さん「泳いで泳いで、もう諦めかけて救命胴衣が流れたところでプカッと…海面に出たんです。船から随分離れていました。きらきら眩くて目を開けたら眼前に青い空が広がっていました。息が苦しくてもがいてる時、生まれたての息子の顔が浮かんで、それで力が戻って上まで泳ぎ切れたんですね。だから今も言うんです。おまえがいなかったら私もここにはいないよって」
決死の覚悟だった生存者260名は日本の駆逐艦に救助され、大いに戸惑ったという。
石田さん「救助されてからです。生き延びたい、と強く思ったのは。あんなに強く生きたいと思ったことは、それまでなかった。戦争は怖いと、初めて思いました」
海軍は3000もの命を失ったことを何週間も認めなかった。生存者は港の被爆跡にいったん隠され、1ヶ月後ようやく帰宅を許された。
石田さん「妻はもう死んだものと諦めていたようです。あちこち怪我はしてたけど五体満足で家に帰れた。あんなに幸せなことはなかった」
大和沈没は犠牲者数で史上最悪の海難事故に数えられる。
史上最大の戦艦は実践向きの軍備というより、国威の象徴だった。
最後の水上特攻出撃のとき、司令官は部下に誇りと不滅の名誉を説いた。が、瓦礫の墓場に眠る数千人の胸の内を語る者はいない。死を迎える瞬間、彼らは何を思ったのか? 今の我々には知る由もない。
第二次世界大戦が終わる頃には、戦艦に代わって空母が洋上における国の象徴となった。大和沈没から60年、戦艦は世界で一隻も造られていない。
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