戦艦大和の米PBSドキュメンタリー:Yamato - Sinking the Supership 3/6



歴史家Malcom Muir氏「…日本は世界の列強の仲間入りをしたんですね」

が、仲間入りの代償は高くついた。1922年西側諸国がワシントン海軍軍縮条約を締結した際も、新参者の日本は先方(米英)の提示した条件を飲むほかなかったのだ。

歴史家Muir氏「これは日本国内に大反発を巻き起こしました。米英は各々15隻まで戦艦の保有が許されているのに日本はたったの9隻だったんです」

歴史家Katsuhiro Hara氏「数では軍事競争に勝てない。ならば相手の船を一度に何隻も攻撃できる超優れたもの造るしかないってことになったんですね、極秘に」

歴史家Muir氏「噂はありました。日本がとんでもないサイズのもの造ってるって噂は。しかし、あるひとりの海軍報道官の『どうせ日本のプロパガンダだろ』のひと言で風説ということになってしまったんです。日本を甘く見るいつものパターンですね」

世界最大・最強の戦艦の開発は極秘裏に進められ、呉の製造現場周辺には何マイルも漁師の網が張り巡らされた。呉には誰ひとりとして開発の全容を知る者はいなかった。Sakutaro Nishihato氏は、この謎に包まれた戦艦を設計した技師のひとりだ。

戦艦大和の設計図。1:55-)

Sakutaro Nishihato氏「毎日仕事が終わると管理者に図面を提出し、金庫に鍵かけて帰るんです。図面には最高機密の判が押されてました。自分が設計したものが世界で最も大きな船だと知ったのは戦後になってからです」

大和のデザインは断片的にしかわかっていない。絵と写真も数葉残ってるだけ。だが想像を絶するスケールだったことはわかっている。それは連合軍側の戦艦の2倍近くあり、砲塔ひとつで米軍駆逐艦を上回る重量だった。

主砲の最大射程は未曾有の40km(25マイル)。これだけの射程になると、もはやターゲットも見えない。地平線の彼方を狙う時には着弾観測機で誘導してやらないといけない(3:03に図。なんだこりゃ!)。当時最新鋭の兵器を意図して造られたものだった。

1941年竣工。極秘のため、呉の港では進水式もなかった。

歴史家Muir氏「我々は無線シグナルを傍受していたので、新しい船の名が『YAMATO』あることはアメリカの情報分析官がキャッチしたんですが、名前だけわかっても船のケーパビリティについては何もわからなかった」

日本では、この船の名には特別な、ほぼ宗教に近い格別の意味がある。大和は、日本と同義語、日本を詩的に表す言葉である。

大和元乗組員Hiroto Takamoto氏「大和に来るのはトップの人だけ。ですからもう、大変な誇りだったんです」
大和生存者Naoyoshi Ishida氏「みんな大和は不沈船だと思ってました。当時最高の船ですから」
Takamoto氏「大和が沈むか日本が沈むかどっちか、というぐらい大和が沈むことは考えられないことでした」

しかし乗組員の確信とは裏腹に、大和は不沈ではなかった。残骸が見えてくるにつれ、これが史上最大の沈没船であることはダイバーの目にも明らかになった。船の実寸は国家機密だった。

歴史家Hara氏「米国に見つかったら兵力を削られるため、大砲の大きさも船の大きさも伏せられていたんですね」

歴史家Muir氏「日本の機密保持は鉄壁でした。米海軍の情報分析官もアメリカの新型戦艦並みの大きさだと思い込んでいた」

だが実際の大和はアメリカの予想の倍あった。それまで戦艦に積んだこともない巨大な大砲が中心の設計なので、どうしても大きさが要る。探査が進むにつれ、大和の想像を絶する攻撃力もわかってきた。

大和元乗組員Takamoto氏「大和が発砲すると、思わず伏せたものです、こうやって。あれは大変なものだった。立ってると2~3m吹き飛ばされるんです」

大和が18インチ砲弾 ―砲弾重量は1個につき車1台分もある― を超音速で発射すると、厚さ2フィート(60cm)近い防御壁も貫通だ。これだけ巨大な砲弾の重量と反動を支えるには船幅も要る。

アメリカの戦艦は2つの大洋を行き来するため、船幅はパナマ運河の水門より狭くしないといけない。

歴史家Muir氏「パナマ運河の水門の幅は110フィート(33.5m)。米戦艦はこの制限に常に悩まされていた。米軍最大の戦艦でも幅は108フィート6インチで、あれが通過できるギリギリだった(7:47、写真)」

が、大和はパナマとは無縁の、太平洋を支配するため造られた船だ。幅が余分にとれるため、防御壁もかつてない厚さのものを実装できた。

大和設計者・西畑作太郎氏「船の長さに比べて幅がとても大きいので、それだけ波の抵抗がかかって流体力上よろしくない、ということになった」

船の設計士は長年、舳先の形状で波の抵抗を弱める努力を続けてきた。幅が広い大和には、流線の設計が不可欠だ。

大和設計者・西畑作太郎氏「パラフィン(ろう)で様々な形の模型を50通り造って実験しました」

結果生まれたのが、バルバス・バウ(Bulbous Bow、球状船首)。

歴史家Hara氏「既に米国の軍艦に採用されてた技術ですが、大和の球は3m突き出る巨大なものだった。(8:53-図解)この船首で波の抵抗が7~8%軽減し、28ノットという驚異的スピードが実現できたのです」

海底の大和。上向きの船首に、そのシルエットが見てとれる。


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