November 23, 2008

オバマの母アン・ダナムの物語-Part 1:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 TIME: April 21, 2008 Cover

Obama has something his predecessors in the civil right movement rarely showed in public; the smile.  If you want to learn more about a woman who gave him it, TIME's "The Story of Barack Obama's Mother" is the best to start with.  NY Times' "A Free-Spirited Wanderer Who Set Obama’s Path" is also informative.


"The Story of Barack Obama's Mother"

by Amanda Ripley/Honolulu, April 9, 2008, TIME


人はみな、相矛盾する真実を生きている。ひとつを取ればひとつが嘘というものではない。バラク・オバマの母親は少なくとも12の顔を持つ人だった。

スタンレイ・アン・ソエトロ(S. Ann Soetoro、Ann Dunham/アン・ダナム)は10代で出産し、文化人類学で博士号を取得した。中西部出身の白人女性で、故郷よりインドネシアの暮らしが性に合っていた。母親になるために生まれたような女でありながら仕事中毒。恋愛では現実主義者だった(そんなことが可能なら)。

「今思うと母には自分が何者で、何を信じているかに、強く拘るところがありました。そのくせ無鉄砲な一面もあった。常に何かを探し求めていたのだと思います。型にはまった人生は真っ平ごめん、そんな人でした」と、オバマは最近私に語った。

オバマの母親は夢追い人だった。リスキーな賭けをはり、見返りが回収できることは少なかった。子どもたちはそんな彼女の選択に付き合って生きていくほかなかった。

彼女は恋に落ちた。二度。相手は見知らぬ遠い異国から来た留学生だ。どちらも結婚は失敗に終わり、残された子ども2人の子育ては両親や友人の援助に頼った。

「よく泣く人でした」と、(オバマと異父妹の)娘マヤ・ソエトロ-ン(Maya Soetoro-Ng)さんは振り返る。「ニュースや悲しい映画で酷い扱いを受けている動物とか子どもを見ては泣き、話し相手に自分のことが分かってもらえないと言っては泣きました」。それでいながら彼女は怖いもの知らずだった。「とても有能で。バイクの後ろにまたがって出先を回って綿密な野外調査もこなしてましたね。彼女の調査は責任と洞察に裏打ちされたものでした。母は問題の核心を見抜き、責任の所在が誰にあるか、分かってる人でした」

今のオバマの人生には、母親を反面教師にした部分もある。見知らぬ土地に子を連れ去り、親元離してティーンの息子を育てるのではなしに、オバマは自分の子どもは中西部という土地に根ざした人に育てようとした。「子どもには、母が自分にしてくれなかったようなかたちで安定した環境をつくってやりました。シカゴに根を下ろし、ひとつの土地にどっかり根を張った女性と結婚する生き方を選んだのも、たぶん自分が昔得られなかった安定を求める気持ちの表れかもしれません」(オバマ)

皮肉なことに、オバマの人生に最も大きな影響を与えた人物について我々が知りうる情報は最も限られている。アメリカでは今もアフリカ人の血が流れていること即ち単なる黒人という見方が根強く、肌の色が何にも増して先入観としてある。おそらくそのせいもあろう。この男(オバマ)のストーリーの残り半分については満足に人の口にのぼることもない。

だがオバマはこの母親から生まれた息子。彼の話は断定ではなく聞き手の想像に任せる部分が多いが、それでも氏の母親が何かを信じて疑わないタイプの人だったことは言葉の端々にヒントが散りばめられている。政治を一度も信じたことのない人がオバマに寄附する時、彼らはオバマの中に母親譲りの才、イデオロギーは片鱗も用いずパワフルな議論(たまたまそれは非常にリベラルだった)を展開する能力を見出し、そこを買っている。オバマが自分と似ても似つかない幾千という群集の心を動かす時、それは宝石を吟味するのと違わぬ眼差しで異文化を見つめる親を持った事実と、きっとどこかで繋がっているはずなのだ。

オバマは生まれながらにして人に希望を広める天職を背負ってきた。それはいわばファミリー・ビジネス(家業)のようなものであり、彼はこれを親から譲り受けた。オバマ自身は試練に試練を重ねて生きてきた人ではないかもしれないが、彼を育てた人はまさにその通りの人だった。

普通、選挙の予備選特集で候補者の亡母の横顔を雑誌が紹介することはまずない。が、アン・ソエトロは普通の母親とは違った。

Obama's mom and grandparents(c) TIME

スタンレイ・アン・ダナム時代―Stanley Ann Dunham

ヒラリー・クリントンが生まれるわずか5年前の1942年、オバマの母親は戦時の緊張、差別、格差が不信を生む時代のアメリカに生まれた。父親が男の子を欲しがっていたことから、つけた名前は(父親と同じ)男子名「Stanley(スタンレイ)」。からかわれても我慢し、新しい町に引っ越すと自己紹介のたびに不便を謝り、高校を出るまでは改名するでもなく、ずっと義理堅くその名を引きさげていた。

生涯、彼女は4つの名を用いた。名前がそのまま人生の章立てになっている。18歳になるまでのスタンレイ時代、一家はカンザスからカリフォルニア、テキサス、ワシントンまで計5回引っ越しを繰り返した。彼女の引越し癖は、家具の営業マンだった父親譲りのものだ。

高校時代を過ごしたのはワシントン州の小さな島。哲学は飛び級で上のクラスをとり、シアトルのカフェに通い詰めた。「友情やニュースに関心のある、とても頭が良くて物静かな女の子でしたよ」と、高校時代仲の良かったマキシン・ボックスさんは昔を偲ぶ。2人とも高校卒業後は大学進学・就職の進路を目指していた。「子どもや結婚には特に興味はなかったですね」とボックスさん。スタンレイは同級生よりシカゴ大学に一足早く合格したが、父親が難色を示した。世の父親の常で、実家にずっと置いたらどうなるか先行きのことも考えず、「親元離れるのは早過ぎる」と言って反対した。

高校卒業後、父親は家族を連れてまた引っ越した。今度の行き先はホノルル。新しく家具大型店ができるという噂を聞きつけて即決した。当時ハワイは米国の州になったばかりで、新たなフロンティアだった。スタンレイは渋々従い、ハワイ大学の1年生に進学した。



バラク・H.・オバマ夫人時代―Mrs. Barack H. Obama

ハワイに引っ越す直前、スタンレイは生まれて初めて外国映画を観た。『Black Orpheus』(邦題『黒いオルフェ』)という、オルフェ伝説をリメークした悲恋物語でカンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞など受賞したミュージカルである。ロケ地がブラジルということもあり、その時代の作品としてはエキゾチックと思われていたが、脚本・監督はフランスの白人だ。お涙頂戴の、現代人の目から見るとどこか人を見下したようなところもある作品だ。

後年オバマは母親に連れられてこの映画を観に行った。途中で映画館を出ていきたくなって母を見ると、そこには16歳の昔に還った母がいた。「突然ハッと気づいたんです」―オバマは回顧録『Dreams from My Father』にこう記している。「銀幕で今こうして自分が見ている子どもじみた黒人…母は取りも直さずこれをずっと何年も胸にしまってハワイに行ったのだと。それはカンザス生まれの白人中流階級の娘には禁断の、単純なファンタジー(妄想)でした。そこに行けばきっと熱く官能的でエキゾチックな、こことは違う何かが待っている、という」

大学進学の頃までにスタンレイは「アン」と名乗るようになっていた。バラク・オバマ・シニアとは、ロシア語の授業で知り合った。氏はハワイ大学初のアフリカ人留学生の一人として大変な注目を浴びていた。教会の会合で講演を行い、地元紙から何度かインタビューの取材も受けた。「周りの人を磁石のように惹きつける人柄でした」と語るのは、オバマ・シニアと大学で親交のあったハワイ選出のニール・アバクロンビー(Neil Abercrombie)議員だ。「彼が口にすると、なんでも名文句になるんですよ。どんなありきたりの考察でもね」

オバマの父は大学で瞬く間に大勢の友だちを作った。「一緒にビール飲んでピッツァ食べてレコード聴いてましたよ」(アバクロンビー議員)。語り合う話題はベトナムのこと、政治のこと。「みんなあらゆることについて自分の意見を持ってました。しかもみんな、きっと他の人も自分の意見を聞きたがってるという意見では一致してたんです。—バラクは誰よりもそうでしたね」

例外はアンだ。片隅にいる物静かな年下の女の子は秋口からオバマたちとつるみ始めた。「まだ高校を出たばかりだったし、大体は傍で見てるだけでしたけど」(アバクロンビー議員)。 オバマ・シニアが白人女性と付き合ってることは仲間も知っていたが、敢えて騒がなかった。結局ここはハワイ。人種が溶け合うメルティングポットが自慢の土地柄じゃないか―。

だが、1960年代初頭ハワイで“メルティングポット”と言えばそれは普通は白人とアジア人の交わる場所を意味した。当時ハワイの白人女性の19%は中国人男性と結婚しており、それでも残りの米国からは急進的と見なされていた。黒人は州人口の1%未満。白人との異人種間結婚はハワイでは合法だったが、他の州の半分では、まだ法律で禁じられていた。

アンは両親に大学で一緒のアフリカ人学生の話をし、両親は彼をディナーに招いた。アンの父親は娘が手を伸ばして青年の手を握ったことには気づかなかった、とオバマは本に書いている。驚かせない方が賢明だと彼女は判断した。「母は、美しい黒人映画の映像が頭の中で流れている、例の少女だったんです」(オバマ回顧録)

1961年2月2日、知り合って何ヶ月かでオバマの両親はマウイで結婚した(離婚記録より)。木曜日。アンはバラク・オバマ2世の子を宿し、妊娠3ヶ月の体だった。結婚の知らせは式が終わるまで友人たちには伏せていた。「誰も招待されませんでした」(アバクロンビー議員)。

結婚した動機は今に至るまで謎だ。オバマも知らない。「母に詳しい事情は一度も問い詰めたことがないんです。妊娠したから結婚を決めたのか? それとも父は、伝統と格式に則って母に求婚したんでしょうか?」―オバマはいぶかる。「母があの世に逝ってなければ、もっと聞いてたと思います」

1961年当時の標準から言ってもアンの結婚は若かった。彼女は1セメスター出席後、18歳で大学を中退した、とハワイ大学の記録にはある。ワシントン州の友人たちはこの報せに「みんな本当にショックを受けていました」と、高校時代の同窓生ボックスさんは語る。

やがて、オバマがもうじき満1歳の誕生日を迎える頃、父親は経済学の博士号取得のためハーバードに旅立った。家族同伴で進学できる、もっと融通の利く奨学金を提示していたニューヨーク市のNew Schoolからも合格通知が届いていたにも関わらず、進学を決めたのはハーバードだった。「最高の教育をどうして拒否できよう?」―彼はアンにこう語ったと、オバマ回顧録にはある。

オバマの父親には、ある使命があった。それは「祖国に戻り、ケニアの改革に尽力すること」。新しくできた家族も連れ帰りたかったが、祖国には渡米前に結婚した妻もいた—法的拘束力のある結婚だったかどうかは分からないが、結局アンは追わないことに決めた。「彼女は甘い幻想は抱えていませんでした」とアバクロンビー議員は言う。「彼はあの時代の男です。それに、家父長制の非常に強い社会から来た人だった」。アンは1964年1月、ホノルル市内で離婚届けを出した。理由は「酷い精神的苦痛」―当時は離婚理由と言えばこれだった。オバマ・シニアは、異議申し立ては行わずマサチューセッツ州ケンブリッジで離婚届けにサインした。

アンは同じ世代の女性が普通では経験しえないことを既に経験していた。「アフリカ人と結婚し、子どもを産み、離婚」。この岐路を境に人生は先細りも考えられた。――年端もいかない社会の片隅に追いやられた女性が、女手ひとつで家賃を払い、子どもを育てる人生、である。消えた父親の悪口を説得力十分に息子の頭に吹き込んで満たしてやることもできた。が、そうはならなかった。

オバマは父親に離婚後1度だけハワイで再会した=写真=
このあと父親は帰国し米系石油会社とケニア政府に勤務。
1982年交通事故で他界した。享年46。(c) Wikipedia

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[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

4 comments:

Yoshinori_K said...

とても面白く拝見しました。

天才の作り方は、夢見がちのおやじ+現実派の母、とのことですが、Obama 氏の母親は一人二役!?

夢見がちのおやじ@Uganda でした(笑)。

satomi said...

ねー。黒いオルフェに対するオバマの反応が面白いですよね。自分はこれで生まれたのかよっ、と愕然と(笑)しながらも、母親の心がすっかり読めてるところが…

この特集に先行したNYTには、『Dreams from My Father』(まさか母親が死ぬなんて思わないから父親の話ばっかり)に目を通した母親が開口一番、オバマ父を悪く書くなと言ったという話が載ってます。なかなかできるこっちゃないですよね…

Anonymous said...

オバマの母親について知りたいと思い、ここに来ました。ためになる素晴らしい記事の翻訳をありがとうございます。

なお、「ヒラリー・クリントンが生まれてわずか5年後」は「ヒラリー・クリントンが生まれるわずか5年前」かと思います。

satomi said...

わわわ、そうですね! 訂正いたしました、ありがとうございます! 良い週末を:)

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