November 23, 2008

オバマの母アン・ダナムの物語-Part 2:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 
(from left )Lolo Soetoro, Ann Dunham, Maya, Barack (c) Reuters

Part 1からのつづき)

スタンレイ・アン・ダナム・ソエトロ時代―S. Ann Dunham Soetoro

息子がもうじき2歳になる時、アンは大学に戻った。家計は苦しかった。政府が低所得層に補助する食品割引券を集め、幼いバラクの育児は実家に頼った。4年後、学士号取得。在学中ハワイ大で留学生ロロ・ソエトロ(Lolo Soetoro)と出会う(「シングルの女友達にはあそこに行けって言うのよ」―自分もキャンパスで知り合った男性[コンラッド・ン助教授]と結婚した娘のソエトロ-ンさんは笑う)。楽天家のロロは何時間でも喜んで、アンの父親のチェスや息子のレスリングの相手をした。ロロがプロポーズしたのは1967年のことだ。

母と息子はロロの後を追い、何ヶ月もかけてインドネシア行きの渡航準備を整えた。—予防接種、パスポート、航空券。二人とも国を離れるのは初めてだ。長旅の末に着いたのは見たこともないような土地だった。後にオバマはこう述懐している。「飛行機から歩いて降りると、地面ではタールマックが熱気で波打っていた。太陽は溶鉱炉のように眩しく照り付けている。母の手をしっかり握り、自分が守ってやるんだと心に決めた」

ロロの家はジャカルタ郊外にあった。ホノルルの高層ビルから長距離移動で着いた先は電気も通ってなければ、道は舗装もされてもいない。国はスハルト将軍の支配下に移行する過渡期で、600%の勢いでインフレが進み、あらゆる物資が不足していた。アン親子を知る地元の人たちによると、二人はその界隈に住む初めての外国人だったという。裏庭はクロコダイルの赤ちゃん2頭と鶏、天国の鳥たちが占領していた。

近所の子と仲良くなりたい一心でオバマは、家の仕切りの壁に座って両手をビッグバードみたいにバタバタさせながらカーカー鳴き声を上げていた。幼馴染の女性Kay Ikranagaraさんはその姿を今も覚えている。「あれで子どもたちが笑い出してね。あとは一緒になって遊んだんですよ」

オバマはカトリック系の小学校「Franciscus Assisi Primary School」に通った。ただでさえ外国人な上に、地元の子よりデブなオバマは目立つ存在だったが、からかわれても軽く受け流し、他のみんなと同じように豆腐とテンペを頬張り、サッカーボールを追いかけ、グアバの木から実をもいだ。「ネグロ」と呼ばれても頓着する素振りもなかったと、近所に住んでいたBambang Sukocoさんは語る。

最初は戸口にくる物乞いの一人ひとりにお金を施していたオバマの母だが、憐憫のキャラバン―手足のない子、ハンセン病患者―の流れは永久に止まない。やむなく相手を吟味して施すようになった。夫は彼女が相手の苦しみの度合いを真剣に秤りにかけるのを笑い、オバマに言ったものだ。「お母さんは気立ての優しい人だね」

アンがインドネシアに興味を惹かれるにつれ、夫は西欧かぶれになっていった。アメリカの外資系石油会社で昇進し、一家はもっと良い住区に引越した。夫が連れ出すディナーパーティーは、アンには退屈だった。男はゴルフのスコアの自慢、妻はインドネシア人の召使いの悪口。夫婦喧嘩は滅多にしない2人だったが、共通の話題はみるみる減っていった。「孤独に対処する心の準備が母にはできていなかった」とオバマは『Dreams』に記している。「それは絶えず続いた。まるで息切れのように」

アンは米国大使館で英語教師の仕事に就いた。彼女は生涯、日が昇るよりずっと早起きの人だった。毎朝4時には息子の部屋に行き、アメリカから通信教育の教材を取り寄せて英語を教えた。エリートの子弟が通うインターナショナルスクールは学費が高くて通わせてあげられない。彼には勉強が簡単過ぎるんじゃないかと心配してのことだった。オバマは2年通ったカトリック系スクールから、引越し先に近い州立小学校に転校。学校で外国人は彼一人だった、と同窓生のAti Kisjantoさんは言う。だが、オバマはインドネシア語も片言しゃべり、新しい友だちを作った。

Jakarta Classmates shouting "Long Live Obama" (March 1, 2008, Jakarta)
「オバマ万歳!」と気炎を上げるジャカルタの
同窓生たち(c) Reuters

インドネシアのイスラム教人口は世界最大だが、オバマの家は宗教熱心ではなかった。「母は、バプテスト派もメソジスト派も名ばかりで実践してない親の間に育った人ですが、私が知る中で最もスピリチュアルな魂の持ち主でした」とオバマは2007年の演説で述べている。「しかし、制度としての宗教には健やかな懐疑心も持ち併せていた。だから、私もそうだったんです」

アンは彼女なりのやり方で、息子の生活圏内に黒人が一人もいない部分の不在をなんとか埋め合わせようとした。夜になると仕事帰りに公民権運動の本やマヘリア・ジャクソンのレコードを仕入れてきた。彼女の人種の調和に対する憧れは単純極まりなかった。「初期の[マーチン・ルーサー・]キング博士の時代から抜け出てきたような人でした。人は本来、肌の下ではみな同じ。偏見はどんなものであれ間違っている。よって目指すべきゴールは、どんな人でも独立した個人として扱うこと、そう信じてました」 (オバマ)。1970年生まれの娘にはありとあらゆる肌の色の人形を買ってやった。「三つ編みのおさげを結った黒人のかわいい女の子、イヌイット、サカガウィア、木靴履いたオランダの小さな男の子…まるで国連でしたよ」とソエトロ-ンさんは笑う。

1971年、アンは10歳になるオバマをハワイに戻し、親に手伝ってもらって奨学金を獲得したエリートのプレップスクール「Punahou」に実家から通わせた。この苦渋の決断は、アンが教育をどれほど重視していたかの現われとも言える。が、彼女にとってはとても辛いことだった、とアンの友人たちは言う。オバマは自著で、疎外感が自分の青春に陰を落とした、と述べている。私にはこうも語った。「(母がそばにいないことを)喪失とは感じませんでした。でも、遠く別れたのは事実です。それを思うと自分が考えている以上に影響はあったのかもしれません」

1年が経って、アンは約束通りバラクの後を追いハワイに帰った。娘の手を引き、夫は後に残して。そしてハワイ大修士課程に入り、そこでインドネシアの文化人類学を学んだ。

インドネシアは文化人類学者にとっては謎に満ちた不思議の国である。1万7500もの島嶼から成り、2億3000万人が300を超える言語を話し、その群島文化は仏教、ヒンズー教、イスラム教、オランダの伝統で彩られている。インドネシアは「多くの人を吸い込んでしまう」と語るのは、文化人類学者の仲間で友人のアリス・デューイ(Alice Dewey)さんだ。「愉しいんです」

この時期辺りを境にアンは自分の意見を声に出して言う人になる。それまでの彼女を知る人はみなアンを物静かで知的な人だと語った。その後知り合った人たちは「歯に衣着せぬ」、「情熱的」という言葉を使う。しかも修士研究はタイミングも完璧だった。「地球上のあらゆる表土で変化が進行していました」とデューイさんは言う。「植民地支配の勢力が崩壊し、諸国は支援を必要としていた。文化人類学者の間でも開発の仕事に対する関心が芽生えていた時期ですね」

アンの夫はハワイを頻繁に訪れたが、2人が同居することは二度となかった。1980年にアンは離婚届けを提出した。オバマの父親の時と同じく、ロロとは別れてからも定期的に連絡を取り合った。離婚記録には、扶養手当や子どもの養育費は求めなかった、とある。

「母は人より飛びぬけて楽観主義というほどでもなかったし、子どもを前に愚痴をこぼすことも確かにありました」とソエトロ-ンさん。「でも、離婚の残がいで世の中の男全体を判断したり、愛がこうだと決め付ける人じゃなかった。増してや悲観論者になる自分を許す人ではなかったんです」。破局に終わった結婚から、アンは一人ずつ子どもを授かった。うち一つの結婚では、もうひとつの祖国も。

 
Barack Obama with Maya in Barack's high school graduation
高校卒業式のバラク・オバマと異父妹マヤさん(via)

Part 1 / 2 / 3

[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

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