ベイエリア伝説のレスラー、キンジ渋谷逝く:Kinji Shibuya Dies At 88

キンジ渋谷(本名・渋谷金持)
(c) Shibuya Family (via San Jose Mercury News)


Kinji Shibuya died at age 88 on May 3 and a public memorial service will be held today, his 89th birthday, at the Buddhist Church in Union City.   That's where my family members visit for Japanese school and Kendo practic, but I didn't even know his name 'till I came across the obituary (great writeup) quite by accident.  CBS video here.


日本語と剣道で家族がよく行く近所のお寺で今日、キンジ渋谷の告別式がある。生きていれば今日が89回目の誕生日だった。

キンジ渋谷という名は私も訃報読むまで知らなかったが、戦後、極悪レスラーで大成したユタ生まれの日系2世だ。両親は福島生まれ。得意技は空手チョップと目つぶしの塩(Salt in the eyes trick)。勝つと、「アメリカのドルを日本に持ってってやるわい、わっはっは」(日本語訛りもマスター)と高笑いして、みんなに嫌われた。

でも、根はオモロいおっさんだったようで、25年間も息の長いヒール人生を全うし、タッグを組んだマサ斎藤を立派に育て、引退後も映画に出たりして、愛された。長い訃報を訳しておこう。ニュースにはご子息と奥さんも出ているよ。

Remembering Kinji Shibuya:
'bad guy' in the wrestling ring, gentle soul outside it

Carl Steward, Bay Area News Group, May 14, 2010


現代スポーツ界でキンジ渋谷の名を知る人はほとんどいないだろう。おそらくプロレス界のリングの片隅でも。

しかし、南サンフランシスコのカウパレスでビッグ・タイム・レスリングが開かれ、毎週金曜夜にはKTVUチャンネル2でプロレス熱戦スタジオ生中継があった'60年代、'70年代を知る人で、極悪キンジ(Kinji)の名を知らない人はいないだろう。キンジはベイエリア随一のスポーツ界の顔。みんなに憎まれ役として愛された。

無論当時のプロレスはスポーツと言うより八百鳥のエンタメであり、各人各様お決まりのギャグな技があった。その面で渋谷はおそらく最強だった。

彼は1950年代はじめ自分の演じるペルソナを慎重に練り上げた。第2次世界大戦が終わってまだ数年で、世の中にはまだ反日感情が根強く残っていた。そこで彼は怒れるアジアの野獣という人物設定を選び、25年間のリングのキャリアでヒール(憎まれ役)を演じ通し、1976年55歳で引退してからも、それを肥やしに映画やTVの仕事も立派にこなしたのだった。

渋谷は彼の生きた時代で最高のレスラーと、片っ端から対戦し、組んだ。―パット・パターソン(Pat Patterson)、ペッパー・ゴーメッツ(Pepper Gomez)、マサ斎藤(Mr. Saito)、レイ・スティーヴンス(Ray Stevens)、ヘイスタック・カルホーン(Haystacks Calhoun)などなど。だが知名度という点では全国区でも地方区でもこうしたビッグネームに決して引けを取らなかった。当時プロレスは全米30地域に分かれていた。レスリング史研究家George Schire氏によれば、渋谷はあらゆる地方で戦い、彼が出場する試合はどこも大入りだったという。

だが特にベイエリアでは顔も売れていた。そのぶん罵倒されることも多い、悪役の顔だった。渋谷は通常タグ戦でアジアの相棒と組んだ。獲得タイトル多数。それも貴重な業績だが、誰もが顔を知るスターになれたのは、ステージ上で渋谷が見せる存在感のなせる技だ。「'60年代はサンフランシスコでも最高級のレストランに顔を出すと、すぐ席に通してもらえたものです」と語るのは、長男のロバート渋谷さん。「まるでシナトラ扱いでした」

黄金時代も昔日。1967年から住んでいるヘイワードの自宅で5月3日、渋谷が88歳で息を引き取っても、最初はほとんど話題にものぼらなかった。が、幸いレスリング専門サイトには彼の死後、古き良き思い出ばなしと追悼の言葉が今、波のように押し寄せている。

それだけでなくファン・友人たちが草の根レベルで彼の偉大なレガシーを復活させるべく、渋谷は実はこんな人だった、という秘話を口々に明かしている。現実の渋谷は物静かで、思慮深く、家族思いな男だった。晩年は池にチェンピオン鯉を飼い、庭木鋏を持ってはヘイワードの自宅の周りをそぞろ歩きし、近所の人の植え込みを剪定してあげた。仲良くお喋りがしたい一心で。

「全然知らない人が私や兄のFacebookページをたずねてきて、心温まる昔話や父の思い出を書いていってくれるんですよ」と語るのは長女・ミシェル渋谷さんだ。

「誰もが望む、豊かな人生だったと思います。外側は本当に性悪なタフガイを演じていました。が、心の中は本当に気がやさしくて、ユーモアのセンスも最高で、人づきあいでも相手を怖がらせず、愛情で包む人でした」。リングの極悪ぶりとはまるで正反対である。

渋谷は「日本から来た」ことになっていたが、実はユタ生まれ。ハワイ大学ではフットボールのスター選手で、ジャッキー・ロビンソンやカイル・ロートのような名選手とプレイした。家族の話では、ワシントン・レッドスキンズが契約に乗り気だったが、日本人の家系だったので手を引いたのだという。

仕方なく1951年、プロレスに転向。このバイアス(偏見)をリングのペルソナに逆に活かせるんじゃないか、と思いつく。と言っても最初のうちは善玉レスラーで始めたのだが、ある晩ショーで、おばあちゃんが散々罵りながら帽子止めピンで脇に斬りかかってきて、その時にハッと目覚めたのだ。こいつぁひょっとして危険な悪役ならもっと選手寿命(+金)伸びるんじゃないか―。

そこでさっそく「東洋古来の武道を学び、敵の神経系統を27通りの手法で麻痺できる技を身につけた」とか、「一度は必殺空手チョップでリングで男を殺したこともある」とか、いろいろ設定を練り上げてみた。全部、演技を面白くするための小道具である。彼は話術にも優れていた。特に伝説のアナウンサー、ウォルト・ハリス(Walt Harris)と大昔の白黒テレビでやったインタビューは傑作だ。「テレビ局KTVUの名を広めたのはレスリングとローラーダービーです。わけてもキンジの貢献は大きいですね」(チャンネル2 スポーツ番組アンカーMark Ibanez氏)

59年連れ添った妻ジャネットさんと子どもたちは、奇行も仕事の一分と割りきっていた。家では普通のやさしいパパだったが、それでも有名人の父親のレッテルを貼られることも多かった。

「ベイブリッジやサンマテオブリッジを家の車で渡ってると、他の車が右も左もみんなこっちを見て得意技や空手チョップの真似してくるんです。そうされる子どもの身にもなってみてくださいよ。[...]それこそありとあらゆる種類の人たちが、です。キャデラックの男がなんかやってるなーと思えば、次の瞬間にはピックアップトラックの男、という具合」

ミシェルさんは今でもアリーナ観戦に行った時のことを、よく覚えている。キンジの子と悟られぬよう、屋内の照明が暗くなるまで待ってから会場に入り、ショーが終わる前に外に出てパジャマに着替えて、母親の迎えの車がくると、動いてるままの状態で駆け込む。 パパもリングから出てくるとすぐ車に飛び乗り、家族全員、猛スピードで会場を去った。

「いつも母親と、まるで脱走車だねって冗談言ったもんですよ」(ロバートさん)

幸い今はこうして訃報に触れ、たくさんの人たちが渋谷のことを懐かしく思い起こしている。彼の伝説は消えそうもない。こんなにも多くの人たちを楽しませてくれた男にとってこれは、何よりのはなむけであろう。

-R.I.P.


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