マンザナー強制収容所の日系人とUSSカリフォルニア:110% American - Japanese Internees at Manzanar

"100% American Japanese Internees at Manzanar"
by Mike McKenna, EastSide Magazine, Spring 2008


I read this three-page article on the 10,046 Japanese Americans imprisoned in Manzanar, approx. 100 miles south from where we stayed last Christmas.


The first Japanese-American internees set foot in Manzanar on March 25, 1942. On the same day, the USS California sunk by the 7 December 1941 Japanese raid on Pearl Harbor was raised from the sea floor.  The author draws a parallel between those two American symbols.


The free local magazine was on the side table.  With nothing else to read, I picked it up.  It was only after I finished reading did I realize the issue dates back to two years ago. Bizarre.  It was even more bizarre 'cause I found a lot more books and mags in the same room right next morning. Maybe I have to visit Manzanar someday. Not as part of my ski trip, though.  I should drive down Hwy 395.

これは去年スキーの投宿先で拾った記事。他に読むものもなかったので、ポツンとテーブルにあった無料ローカル誌を拾い読みしていたのだが、読み終わって日付けを見たら2年前の雑誌だった。おかしなこともあるものだ。翌朝起きたら同じ部屋に他にも本・雑誌が沢山散らばっていたので余計に狐につままれた気分だった。―一度きちんと行かなくちゃな、マンザナー。スキーのついでとかじゃなく。

Farm, Farm Workers, Mount Williamson in background
Ansel Adams Photo Collection (c) Library of Congress

110% American - Japanese Internees at Manzanar

 BY MIKE MCKENNA

 - in Japanese

1941年12月7日は、アメリカ屈辱の日*である。

あの運命の日曜朝、日本は真珠湾を攻撃し、アメリカは第二次世界大戦参戦を余儀なくされた。2000人を超える男女がこの日ハワイで命を落とし、戦艦5隻が沈没。うちUSSカリフォルニアは100名を乗せ海に沈んだ。

1942年2月19日もアメリカ屈辱の日だが、こちらは遙かに知名度が低い。あの運命の日、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領行政命令9066号に署名し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に西部全州における日系アメリカ人退去・「軍事エリア」収容に関し「長官が必要と判断する適正な行動」をなんでも良いので取るよう指示した。現在「戦争収容所」として知られている場所のことだ(おそらく最もふさわしい呼称は強制収容所)。

アラバマヒルズすぐ北のオーウェンズ・ヴァレー。夕暮れ時に雪を頂くシエラネバダの山影に抱かれるマンザナーの一帯も、そんな強制収容所のひとつだった。

Girl and volley ball, Manzanar
Ansel Adams at Manazar collection(c) Library of Congress





The Debate


主な強制収容所は計10ヶ所あった。アーカンソーに2ヶ所、残りは西部の人里離れた砂漠の平原に散在していた。当時日系アメリカ人の大多数は西海岸に住んでいたからだ。マンザナー収容人員はピーク時で10,046人。日系強制収容所のサイズとしては大体標準だ。

収容所は外面も標準的だった。被抑留者はみな怯えた「斜めに胡散臭げに見る目(slanted eyes)」をしていたと、収容体験者が一人称で語る初の自伝「Farewell to Manzanar」を記したジーニー・ワカツキ(Jeanne Wakatsuki Houston)さんは書いている。

真珠湾攻撃後、アメリカに住む外国籍の人は大人と子ども合わせて125,000人近く逮捕されたが、ほとんどが日系人だった。これに対し、ドイツ人はたったの3,000人、イタリア人は1,500人で、「かなりの危険人物」と思われる人だけ逮捕され、別の軍法務省の強制収容所に収容されたのである。

だが、日系人強制収容所の一番の問題点は、収容日系人の3分の2がこの国生まれなのに正式な市民権は得ていなかったことだった(日系人の市民権が認められたのは1952年)。従って一世(日本生まれ米国在住)、二世(一世の子。米国生まれ)の区別なく全員が家畜のように囲い込まれてアイダホ州ミニドカ、アリゾナ州ポストン、カリフォルニア州マンザナーのような場所に護送され、1マイル(1.6km)四方の鉄条網に閉ざされ、ライフル提げた見張り番に塔のてっぺんから監視される生活に入った。

国家の忠誠にもとる行為を企てたわけでもなく、有罪判決が下されたわけでもない人たちを何千、何万人と監禁する行為には納得のいかないアメリカ人も多く、それは命令を履行する立場の男にしても同じだった。

スティムソン長官は当時の日記にこう書いている。「これは法にもとる行為だった。我々には防衛の前線から彼らを遠ざける権利はある。しかし…かといって確たる証拠もないまま投獄する権利まで付随してくるわけではない」

血の気の多いことで悪名高いJ.エドガー・フーバーFBI長官(当時)でさえ、強制収容所には反対の立場だった。「トラブルメーカーはもう全員捕まえて手一杯だ、とフーバーは言ったんです。しまいには自分はこの件には全くノータッチだからな、と言ったそうですよ」と、マンザナーで国定公園サービスガイドを務めるベン・ヘイエズさんは教えてくれた。


Dressmaking class, Manzanar
Ansel Adams at Manazar collection(c)Library of Congress


The Camp

マンザナー被抑留者は南カリフォルニアの自宅からバスで護送された。許可された荷物は手に持てる分だけ。家も車も家宝も好きなおもちゃも全部置いて出なくてはならなかった。―そして大体の人は家財道具を二度と目にすることはなかった。

マンザナーの地に最初の被抑留者が足を踏み入れたのは1942年3月25日―奇しくもUSSカリフォルニアが太平洋の海底から引き上げられたのと同じ日で、最後の被抑留者が去ったのは1945年11月21日である。

マンザナーで最も強く心を打つのは、被抑留者たちがいかに素早く効率的に、アメリカ人が自国の誇りとする行動を起こしたかということ。―つまり被抑留者たちはただじっと手をこまねいて座って不遇を囲うのではなく、腕まくりして仕事にとりかかったのである。

たちまちマンザナーにはオーウェンズヴァレーで最も近代的な病院、全教科学べる高校、戦争支援物資のカモフラージュ用の網を作る工場、牧場、養豚場が現れる。彼らは収容所を取り囲む6000エーカーの高地の砂漠を農地に変え、食料はほぼ自給自足し、収容所には日本の庭ができ花が咲きこぼれた。

被抑留者は自力で一から果樹園まで始めた。マンザナールはスペイン語で「りんご畑」の意だから適地のような気もするが、その昔、楽園を夢見てここで農業を始めたコミュニティは失敗に終わり、楽園どころかロサンゼルス電気水道局に全部土地を売り払う末路を辿っている。

それがほとんど奇跡的と言って良い確率で小さな梨の木畑がひとつ助かり、収容所時代の名残りを今に伝える数少ない証しとなっている。

「今もおいしい梨がなるんです。熟れる季節がくると、休憩室にひと箱もらって置くのを楽しみにしてるんですよ」(ヘイエズさん)

Manzanar Internee Richard Kobayashi
Ansel Adams at Manazar collection(c) Library of Congress

The Comeback


閉鎖から数十年間。「マンザナー」という単語は、教会でいう呪詛の言葉のごときものだった。―みんな考えたくもない、ましてや口にするなんてもってのほかな、忌々しい言葉。

「マンザナーのことは誰も話したがりませんでした。特に一世の人たちはあれで人生台なしにされたようなものですから。自分が抑留されたこと自体が既に悲劇だったんですね」と、聞き語りを元に史書「Camp and Community: Manzanar and the Owens Valley」を共同編纂したEastside在住ロン・ラーソン(Ron Larson)さんは語る。

ラーソンさんの説明によると、過去に光を当てたのは二世だった。

「二世は収容所から釈放された時、とにかくこれからは自分たちが“110%アメリカ人”だってところを証明してやろうじゃないかって心に決めたんですね。そして1世代で国内有数の同化成功例になったのです」

1960年代後半になって二世と日系アメリカ人三世の間から、強制収容所の悲劇について声を上げる人たちが現れ、公民権運動に関わっていく。そして1972年、マンザナーはついにカリフォルニア州指定の史跡となる。

が、ロナルド・レーガン大統領が米国市民自由法に署名し、正式に強制収容所について謝罪を行い、存命中の元収監者8万2000人にひとり2万ドルの賠償金を支払ったのは1988年になってからだった(収容所の中で生まれた人は支払い対象外)。マンザナーは1992年国定歴史史跡となり、2004年にはやっと案内センターが一般公開される。

USSカリフォルニアに話を戻そう。その撃沈が「斜めに見る目(slanted eyes:アジア人の蔑称)」の人々への恐怖を駆り立てる一因となった同戦艦も修復され、3年後南太平洋上の任務に復帰した。これでUSSカリフォルニアはアメリカの良き象徴となる。つまりアメリカが常に自国の誇りとする、叩きのめされても立ち上がってまた戦う不屈の精神。―それは第2次大戦中強制収容の悲劇を体験した日系アメリカ人が辿った軌跡そのものだった。



*時のルーズベルト大統領は真珠湾攻撃の日を「Day of Infamy(屈辱の日)」と呼び、後年ウォルター・ロードの著書タイトル(『Day of Infamy』/邦題『真珠湾攻撃』)にもなった


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