March 25, 2009

クレイ・シャーキー「新聞、考えられないことを考える」:Clay Shirky's "Newspapers and Thinking the Unthinkable"


Clay Shirky's "Newspapers and Thinking the Unthinkable" is an excellent article. It basically tells you "saving the newspaper" argument has no merit.  My friends in newspaper industry will hate to hear this, so I translated the full texts below.  I wish I could write in more academic style... Oh well, I'm just doing the best I can.

インターネットが社会経済に与える影響に詳しいクレイ・シャーキーが、今月ブログに長文を書いた。これは新聞業界の人が読むとショックかもしれない。もちっと非常勤講師らしいアカデミックな文体にできるといいんだけど…自己ベストってことで興味ある方だけどうぞ。

新聞、考えられないことを考える

by クレイ・シャーキー (原文

1993年、新聞チェーンのKnight-Ridder社が、デイブ・バリーの人気コラムの無許可転載状況の調査に乗り出した。氏のコラムはマイアミヘラルド紙が発行し、広くシンジケート先の媒体に流れていたものだ。無許可転載のソースを遡る過程で取材班は多くの事実を発掘した。コラムはUSENETの 「alt.fan.dave_barry」に転載されていた。会員2000人のメーリングリストでも無許可転載版が読まれていた。そして中西部に住むティーンはバリー作品を愛するあまり、みんなも読めるよう自分でせっせとコピーを配っていた。

当時オンラインで付き合いのあった一人に、ゴーディー・トンプソン(Gordy Thompson)がいる。NYタイムズのインターネット・サービスを管理する彼が一度、こんなことを言った。「14歳の小僧が暇な時間の片手間に君の本業を木っ端微塵破壊できるんだぜー。それも君が嫌いだからじゃない、好きだから。これはねー、問題大アリよ」。最近あの話をよく思い出す。

新聞が今直面している問題は、彼らがインターネットの到来を予見できなかったことによるのではない。彼らにはもう、何マイルも先から見えていた。のみならず、対策プランが要ることも早くから分かっていた。それが証拠に1990年代初頭には1つだけでなく何通りものプランを捻出している。ひとつは急成長段階の利用購読サービス・AOLのような、不特定多数が出入りするネットほどにはカオス的状況に至ってないところと提携するプラン。あとひとつは著作権法を守るよう、市民に行動規範を教育するプラン。マイクロペイメントのような新決済モデルも出た。100%広告収入依存型になったらラジオ・TVが享受してるみたいな利益マージンも追求できるのでは、という話も出た。ハードウェアやソフトウェアをわざわざ共有しづらいものにするよう、ハイテク企業に働きかけることも提案されたし、それと同じ目的達成に向けデータネットワーク運用会社と提携する案も出た。そして最終兵器の核のオプションは、「著作権に違反した者を直接提訴し、見せしめにすること」だ。

こうしたアイディアが声高に叫ばれる度に、いろんなシナリオの利点をめぐって白熱した議論が交わされた。DRM(著作権保護技術)や有料の壁に囲う方がうまくいくんじゃない? 飴と鞭の「教育起訴」のアプローチを試すべきでは? などなど。ところが議論百出の中、ひとつだけ“考えられないシナリオ”と広く見なされていたものがあった。そのシナリオは全国の報道編集室でもあまり議論にのぼることがなかった。理由は明白だ。

その考えられないシナリオはこんな具合に展開するのだ。―コンテンツ共有能力は縮小しない。成長する。有料の壁は不人気だ。デジタル広告で非効率性は減る。よって利益も減る。マイクロペイメントに対するアレルギーは、普及の妨げとなる。人は自らの欲求に反する行為を教育されることには抵抗を示すものだ。広告主や読者が守ってきた昔ながらの習慣が、オンラインでは通用しない。恐ろしい訴訟をやっても、集団が継続して行う法律違反には充分な歯止めにならない(禁酒法時代の再来だ)。ハードウェアやソフトウェアのベンダーは著作権保有者を味方とは見なさないし、顧客を敵とも見なさない。DRMは攻撃側がコンテンツ鍵を解読できる仕様になっており、これはどうにも対処のしようがない欠陥だ。そして先のトンプソン氏の言葉じゃないが、本当に惚れ込んだものを誰かと分かち合いたい、そんな純粋な気持ちで動いている人を訴える行為は、その人を鬼のように逆上させる。

革命は、奇妙な認識の倒錯を生む。平時なら自分の身の周りの世界を語るだけの人はプラグマティスト(現実主義者)で、夢のような別の未来を思い描く人はラディカル(急進主義者)だ。ところがここ数十年は平時とは違う。新聞業界内でプラグマティストは、単に窓の外を見るだけで現実世界が時々刻々 と考えられないシナリオに酷似してきたことに気付いた。が、それを言うと、まるで吼え猛る狂犬のように扱われてきた。一方、有料の壁というウケの良いビジョンや、熱烈な支持のあるマイクロペイメントの導入を喧伝する人たちはたとえそれが現実に何ら裏づけのないビジョンであってもヤマ師とは見なされず、まるで救世主扱いだ。

現実が“考えられないもの”になるとき、産業内部にはある種の病魔が宿る。リーダーシップは信仰がベースとなり、現実に起こっていそうなことが「本当に起こってる」と上に進言する無鉄砲さを備えた社員は、みんな群れをなしてイノベーション部門に追いやられ、そこで部署ごと総スカンだ。寓話作家を重用し現実主義者を脇に追いやる行為は、様々な時代に、様々な産業で、様々な影響をもたらしてきた。今の新聞産業の場合、誰よりも業界を護ることに情熱を燃やす擁護者の多くが、旧知の産業が眼前から消え去ろうというこの期に及んでも尚、これに対処するプランを作ることさえままならない状況が生じている。




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'90年代に孵化した各種プランを見回して興味深いのは、どれも土台はみな同じなこと。「安く完璧なコピーができるこれからの世界で、旧来の形態のまま会社を残す方法はこれだ!」とね。細かいところは違う。が、想定しうる結論(考えられない結論は別として)の裏には必ずと言っていいほど、「ニュースや論説を発行する一般車両」という新聞組織の形態は基本的にこのままでオーケーで、今は単に「デジタルのシワ取り手術が必要なだけなのだ」というコアの大前提がある。なもんだから懐疑的な意見に絶えずつきまとわれ、議論は藁にもすがる論調へと堕落した。

「ウォールストリート・ジャーナルは有料だ。だったら我々も有料にしようじゃないか!」(金融情報は読み手が共有したくない数少ない情報種別)。「マイクロペイメントはiTunesで機能してるじゃないか。だったら我々も!」(マイクロペイメントは供給側が、ビジネスモデルの競合を回避できる場合のみ機能する)。「ニューヨークタイムズはコンテンツを有料にすべき!」(もうトライ済み。QPassと、その後はTimesSelectで)。「Cook’s IllustratedとConsumer Reportsは定期購読で経営も順調だってさ!」(これらの媒体は広告収入ゼロだ。利用者はコンテンツだけでなく、[広告にやかましく]訴求されないところに金を払っているのだ)。「こうなりゃみんなでカルテル結成してやる」(…どうぞ世界中の広告メディアに競争の優位を譲ってやってください)。

という堂々巡り。新聞を救う使命に駆られた人たちは、「昔のモデルが崩壊したんなら、代わりに機能するのはいったい何なんだね?」と回答を迫る。答えはこうだ。「回答なし」。機能するものなんて何もない。インターネットが破壊したばかりのものに代わる新聞産業の一般モデルなんて、ないのである。

オールドエコノミーが瓦解する中、産業生産用に完成された組織形態は、デジタルデータ用に最適化した構造に挿げ替えが必要となった。出版産業の現状は、ますます語ることさえ憚られる状態になっている。これまで出版は「一般大衆に情報を届ける」という信じられないほど困難で、複雑で、金のかかる部分を解決してきたわけだが、このコアの課題が、もはや課題ではなくなってしまったからだ。



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グーテンベルグの発明品についてエリザベス・アインシュタイン(Elizabeth Eisenstein)が記した権威ある書物『The Printing Press as an Agent of Change(変化因子としての印刷機)』は冒頭、印刷機初期の歴史の調査報告で始まる。女史はこの調査で、可動活字(movable type)登場前の1400年代初期の暮らしを語る言葉を沢山発掘することができた。読み書きの識字率は限られていた。カトリック教会は汎ヨーロッパの政治勢力として君臨していた。ミサはラテン語で摂り行われていた。一般に広く読まれた本は聖書だった。―女史はさらにグーテンベルグの発明品が普及し始めた後の、1500年代後期の暮らしを物語る言葉も無数に掘り起こした。識字率は増し、同時代の言葉で書かれた本も増え、コペルニクスは画期的な天文学書を出版、ルターは印刷を使って教会改革を進め、宗教・政治の太平を覆した。

女史が注目したのは、だが、ある時代から次の時代への移り変わりを多くの歴史家がいかに無視してきたか、という点だ。印刷普及前と普及後の世界を記すことは子どもの遊戯のようにた易いはずだ。所詮どの年月日も激動とは遠くかけ離れたものだったわけだし。なんだけど、「じゃあ、1500年にいったい世の中で何が起こっていたの?」という話になると、そこがクエスチョンなのだ。アインシュタイン女史は本書で難題を突きつける。「我々はいかにして印刷登場前の世界から印刷登場後の世界にきたのだろう? 革命の実体とはいかなるものだったのか?」

後日判明したところによると、それはカオスみたいなものだった。聖書は各地方の言葉に翻訳されたが、これが教育的恩恵なのか、それとも悪魔の所業なのか、それさえも分からない。エロ小説が登場すると、またぞろ同じ疑問が出た。アリストテレスとガレンの書いた本のコピーが広く出回ると出回ったで、関連書に直に触れて初めてこの2つのソースに対立があったことが判明、古代人信奉にベットリ汚点がついた。物珍しいものが広まる中、旧組織は疲弊して見え、新組織は信用ゼロに見え、それやこれやで民衆はほぼ文字通り何をどう考えていいか分からない状態になった。アリストテレスも信じられないんなら、誰が信じられよう?

この痛みを伴う印刷時代への移行期には様々な実験が現れた。が、それが時代のターニングポイントと分かったのはみんな後世になってからだ。アルドゥス・マヌチウス(Aldus Manutius)というヴェネチアの印刷発行人はイタリック体活字と並んで八つ折り判も発明した。本をそのまま小さくする― そんな一見ちっぽけな変革が後で振り返ってみると、印刷世界の民主化の鍵を握るイノベーションだったのだ。本がより安く、持ち運び便利になるというんで、みんなこれを欲しがる。それに従い、あらゆる発行者の市場が拡大、識字率の価値はいやが上にも高まった。

これはまさに、真の革命のあるべき姿だ。古いものは、新しいものへの交代を待つ間もなく、たちどころに破壊される。どの実験も最初はその重要性があんまりよく分からない。大きな変化は足踏みし、小さな変化は広まる。革命家にもこの先何が起こるか全く予言できない。「コアの組織は保護すべき」という共通認識は、それに同意したはずの張本人らが無意味と引導を渡してしまう(ルターと教会はどちらも、他に何が起ころうとも離教は論外で、誰もそんな話をしてるのではない、と長年主張していたものだ)。古の社会契約はひとたび破壊されると、修復もできなければ、速やかに交換もできない。何故なら、かような契約はその基盤を固めるのに何十年という歳月がかかるからだ。

そしてこれが今の社会が置かれた状況だ。「新聞をどう別のものと取り替えると言うのだ?」と知りたがる人は、「僕らは革命の時代を生きているんじゃないんだよ」と本当は言ってもらいたいのだ。「大丈夫。新しいシステムに交代するまで、古いシステムは崩壊しないから」と言ってもらいたい。「古の社会契約は存続の危機に晒されていない」、「コアの組織はそのまま見逃してもらえる」と言ってもらいたい。「情報伝播の新手法は、これまでのやり方を改善するものであって転覆するものではない」と、言ってもらいたいのだ。

説得力ある言葉でそんな嘘が言える人は、ますます減るばかりだ。


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なぜ新聞がこのような苦境に陥ってしまったのか? その理由が知りたい人には、それが一番顕著にわかる事実を教えてやろう。つまり「活版印刷は設営・運営が恐ろしく高価だ」という事実だ。これはグーテンベルグの時代から当たり前にあった経済の一断面だが、それ(参入障壁)が競争に歯止めをかけるお陰で、印刷機オーナーは一定の経営規模を確保できるだけの黒字を出すことができた。それは互いに餌を与え合う、幸せな経済の組み合わせだった。実力が完全に互角な新聞が2紙ある概念上の街では、いずれ片方が特ダネ、要人インタビューなど取ってやや優位に立つ。その時点で両紙の広告主と読者は若干だがそちらを贔屓にするようになる。するとその新聞は次の広告費をライバルより容易に、もっと少ない経費で獲得が可能になる。こうして支配力が強まり、それがまた贔屓を深め、あとはコーラスのリピート部。しまいには各紙の間に地域別・対象読者別の棲み分けが生まれるか、その地域のメインストリームの読者に1紙独占体制が敷かれるのがおちだ。

長年、それこそ新聞業界の最長老が生まれるずっと以前から、印刷ジャーナリズムはこうした経済と密接な繋がりを持ってきた。大手スーパーのウォルマートが喜んでバグダッド支局に資金援助するような状況は、印刷経費が膨大だからこそ生まれたのである。なにも広告と報道の間に深い連携があるから、こんな風になってるのではない。ウォルマートが広告予算を海外特派員に宛てるよう本気で望んだからでも無論ない。単なる偶然でこうなってるだけだ。広告主は広告表示媒体が他になかったから、こんな風に自分たちの金を使ってもらう以外、選択肢がなかったのである。

昔から紙媒体の経営には難しさと印刷コストが伴うものだ。そう相場は決まっている。そのため、どこも似たりよったりの組織モデルでの運営を強いられた。この類似点があるからこそ我々はみんな『Daily Racing Form』と『L’Osservatore Romano』が同業者のような気がしてるのだ。広告主・発行者・記者の関係はなるほど1世紀も前から文化的慣行として認められてきた。が、それでも偶然は偶然。その事実に変わりはない。

印刷コストには競争回避という効き目があったが、それもインターネットで破壊された。インターネットでは、みんながインフラにお金を出し、みんなでこれを使う。ウォルマートも、地方のメイタグ家電ディーラーも、秘書求人中の弁護士事務所も、同じ通りで自転車売ってるキッズもみんな、そのインフラを使えば発行者との昔ながらの関係を脱却できると知って、そうした。どのみち彼らは最初からバグダッド支局に運営費を出す契約書にサインするなんて、考えも及ばない人たちだったのだ。





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印刷メディアは、大ニュースをあらゆる角度でとりあげ、万が一に備えて市議会傍聴の日常業務もこなし、社会報道の一番重労働な部分を背負っている。こうした報道は、新聞読者以外の人にも恩恵をもたらす。何故なら印刷媒体の記者が書いた記事は、政治家から地方検事からラジオのトーク番組司会者からブロガーまで、みんな利用するからだ。新聞業界人はよく「新聞は社会全体の利益になる」と言う。それは本当にその通りなのだが、今さしあたっての問題には関係ない。「俺たちがいなくなったら寂しくなるぞ!」 という台詞がかつてビジネスモデルだった試しはないからだ。となると問題はこうだ。新聞社が今雇ってる相当数が解雇になった場合、そのニュースは全部これから誰がカバーしていくのか? 

それは私には分からない。誰にも分からない。我々は今、西暦1500年と同じ混沌の時代をみんなで生きている。壊れたものの方が、それに代わる新しいものより、た易く見える時代を。インターネットはこの秋で誕生40周年。一般の人がアクセスできるようになったのは、その半分にも満たない。ウェブ利用が大多数の先進国の普段の暮らしの一部になったのは、そのまた半分未満だ。我々はまだここに辿り着いたばかりなのだ。この先何が起こるのかは革命家にも予言できない。

考えてもみて欲しい。1996年にネットに詳しい人に「Craigslistのポテンシャルを詳しく教えてよ」とお願いしたら、どう答えたろう? 当時Graigslistは創業1年のひよっ子で、法人化もまだだった。一番ありえる回答は既成事実からの類推だ。「メーリングリストはパワフルなツールになり得る」、「社会的影響はデジタルネットワークと密接に結びついている」とかなんとか。きっと「Craiglistはインフラに欠くべからざるピースになる」と正確に将来を言い当てて教えてくれた人なんて、誰もいなかったはずだ。Craigslistがこうなったのは、Craigslistのアイディアが良かったお陰でもなければ、ビジネスモデルのお陰でもないし、増してやサイトを駆動するソフトウェアのお陰でもない。Craigslistそれ自体が勝手に広まり、何百という都市をカバーし、「今はどういうことが可能なのか」という一般認識の一部になってしまったのだ。このように、実験というのは後で振り返ってからでないと、それが時代のターニングポイントとは、誰もそのときには気付けないものだ。

Craigslistは徐々に「未成年者には面白い」ものから「生活に不可欠な、生活に変節をもたらすもの」へと変化した。というわけで、「昔のモデルが崩壊したなら、その代わりに機能するものは何なのだ?」という先の命題に戻ると、ひとつだけ考えられる答えがある。それは「機能するものなんて何もない。でもどれも機能する可能性はある」という回答だ。今は実験の時。たくさんたくさん、実験すべき時なのだ。どの実験も立ち上げ段階では、小さなものに見えるだろう。Craigslistもそうだった。Wikipediaもそうだった。あの八つ折り判もね。

ジャーナリズムは常に資金援助を受けてきた。パトロンは時としてウォルマートであり、自転車を売る子であり、時には右翼の富豪リチャード・メロン・スケイフであったわけだけども、今はますます「君と僕が自分たちの時間を寄附する」仕組みになっている。今、間違いなく順調に機能してるモデルはConsumer Reports、NPR、ProPublica、WikiLeaksなんかだが、どれも応用範囲を広げ一般的事例までカバーできるようなモデルではない。が、それを言うなら、そもそも一般的事例をカバーするモデルなんて、ある方がおかしい。

社会は新聞を必要としない。必要なのはジャーナリズムだ。1世紀もの間、ジャーナリズムの強化と新聞の強化は互いにあまりにもきつく1本に括られてきたので、どっちがどっちか見分けがつかなくなっている。これは佳き偶然だった。が、その偶然が終わった今(まさに我々の眼前でそれは終わっている)、それに代わる様々なジャーナリズム強化策が求められている。

「新聞を救う」ことから「社会を救う」ことに目を向けると、この緊迫した状況で取り組むべき課題は「今ある機関を保存する」から、「なんでもいいから機能することをやる」に変わる。今機能することは、これまで機能してきたことと同じではない。

現代のアルドゥス・マヌチウスが誰かは分からない。Claigslist創始者のクレーグ・ニューマーク(Craig Newmark)かもしれないし、Flickr共同創始者カテリーナ・フェイク(Caterina Fake)かもしれない。NYタイムズ紙デジタル部門SVPのマーティン・ニーゼンホルツ(Martin Nisenholtz)かもしれないし、歌手のエミリー・ベル(Emily Bell)かも。10年経たないと誰にもすごさが分からない何かをコツコツ作ってる19歳の無名のキッズかもしれない。でもどんな実験であれジャーナリズムに新モデルを提供するため考え出されたものは、現実から逃げ隠れするのに比べたら、改善だ。特にこの1年は、多くの新聞で、考えられない未来が既に過去のものになりつつあるわけだしね。

今後数十年、ジャーナリズムは特殊ケースのダブりの上に成り立っていくだろう。こうしたモデルの多くは、リサーチャーや記者の仕事をアマチュアに頼るだろう。こうしたモデルの多くは、収益ではなく後援・奨学金・寄贈に頼るだろう。 こうしたモデルの多くは、興奮した勢いでみんなに結果を伝える14歳の力に頼るだろう。こうしたモデルの多くは、失敗する。紙のニュース媒体の終焉で我々が今失おうとしているものを埋め合わせる実験なんて何もない。だがいずれは本当に機能する実験の寄せ集めが、もしかしたら我々の求めるジャーナリズムを提供してくれるかもしれない。□



Clay Shirky on New Book "Here Comes Everybody"
新著『Here Comes Everybody』を語るクレイ・シャーキー


[Newspapers and Thinking the Unthinkable - Clay Shirky via Techmeme]

Last Updated at 1:25PM on September 26, 2009.

2 comments:

minoguchi said...

日本語訳ありがとうございます!

原文が出てちょっと話題になっていた時に読もうと思っていたのですが、挫けて放置しかかっていたところでした。

新聞はもとより、出版系メディアに関わる人にもぜひ読んで欲しいですね。

satomi said...

うう、ありがとうございます(お名前LINK切れでした!)。IQのゲージを50ぐらい上げて、刃をもう5000回ぐらい研ぐ感じで読んでいただけると丁度良い加減かと、、、いやあ、、、ないものは出てこないですね、、、うー。

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