オバマの母アン・ダナムの物語-Part 3:The Story of Barack Obama's Mother - TIME

 
(c) TIME

Part 2からのつづき)

アン・ダナム・ストロ時代―Ann Dunham Sutoro

ホノルルの小さなアパートで大学の奨学金で生計を立てながら3年間子どもと一緒に暮らした後、アンは博士号取得のフィールドワークのためインドネシアに戻ることに決めた。当時14歳ぐらいだったオバマは自分はハワイに残ると言った。新参者になるのはもう嫌だった。自分のやりたいようにやらせてくれる祖父母の存在も有難かった。アンは反論しなかった。ジャカルタの友人Mary Zurbuchenさんはこう振り返る。「アンはずっと自分の中のある特定の部分には触れずに超然と距離を置くというか、斬り捨てていました。ある意味それができたから、あんなにも多くの国境をまたいでこれたんだと思います」

息子はバスケのことしか頭にないみたいよ ―アンはインドネシアで友だちにこう冗談を言って笑った。「社会的良心なんて一生持てっこない子だって、サジ投げてましたよ」 (元同僚Richard Pattenさん)

離婚後、アンは「Sutoro」というもっと今風なスペルの名前を使い始めた。フォード財団の女性・雇用プログラム担当官という大任に就き、スタッフとの会議では有無を言わさぬ調子で率直に話した。他の多くの海外駐在員と違って、彼女は村人との対話に長い時間を割き、女性の仕事に特にフォーカスを当てながら、彼らに差し迫って必要な優先課題や問題を調べ上げた。「ジャワの市場を足で回ったことが大きな影響を与えていました」と友人のZurbuchenさんは言う。「そこに行けば背中に重い籠を背負ってる女たちが、朝3時に起きて市場まで歩いてきて、農作物を売る姿も目に入るわけです」。フォード財団はもっと政府から離れて、もっと人々の傍に近づかなくてはならない。―アンはそう考え、まさにその通りのことを実践した。

彼女の家には政治家、映画監督、ミュージシャン、労組勧誘員など各界から雑多な人々が集まり、権力者と社会の周辺の人々の社交場となった。「財団の同僚に比べても彼女の交友関係はもっと多方面に広がりがありましたね」とZurbuchenさんは言う。「彼女の手にかかると、それこそ考えられないような組み合わせの人同士が膝を交えて、一緒に話の輪に引き込まれてしまうんです」

オバマの母親は貧しい女性の支援を深く気にかけていたし、自身も混血の子2人の母だった。ところが子どもたちは2人とも、アンが性差別や人種差別のことを話題にした記憶がない、という。現在ホノルルの女子高で歴史の教鞭を執るソエトロ-ンさんは 「母はほとんどいつもポジティブな言葉で語っていました。自分たちは何をやろうとしているのか、自分たちに何ができるのか」 。「イデオロギーの人ではなかったですね」と指摘するのはオバマだ。「そこは私も母譲りなところだと思います。お経のようなうわべだけの決まり文句は、疑ってかかる人でした」

男並みの給料が欲しいもんだわ―と冗談を飛ばす母の記憶はあるが、それは決して足のむだ毛剃りをやめる(女を捨てる)という意味で言っているのではなかった。最近フィラデルフィアで人種について演説し黒人白人の抱える不満を述べた際、オバマは意識的に母親にチャネリングしていた。NBCのニュースに氏はこう語っている。「スピーチの原稿を書いていたら母の記憶がヌッといきなり襲ってきたんです。これを聞いて母はどう思うだろう?信用するだろうか?…と」 。人種に話が及ぶとオバマは私にこう語った。「母はアフリカ系アメリカ人の政治に対するアグレッシブな施策や軍事的アプローチを完全に容認していたわけではないと思います」

1980年代のアジア外国人駐在員社会ではシングルマザーはまだ珍しかった。アンの存在は目立った。その頃にはもう黒い縮れ毛の、随分と大柄な女性になっていたが、インドネシアは異様に寛容な土地柄である。「特にアンのように強烈な個性と存在感を併せ持つ人のことも、インドネシアはとても温かく受け入れてくれる。それが彼女にも、ここに自分の居場所がある…という感覚を与えたんでしょう」(Zurbuchenさん)。家でアンは伝統的な女物部屋着のバティック染めのダスターを身にまとい、簡素な昔ながらの食堂をこよなく愛した。友人たちは今も、道端の屋台で買った「bakso bola tenis」という、テニスボールぐらいもある大きなミートボール入りの麺をアンと分け合った時のことを覚えている。

今の時代ならアンのような人もそれほど珍しくはない。混血の子どもを抱えながらキャリアを追求するシングルマザー。 彼女が先鞭をつけたものは、ある意味、アメリカがこれから辿る未来図そのものだった。が、アンはただ黙々とそれを実践していたのだと、友人たちは言う。「ステレオタイプに収まる人では全然なかったですね」と振り返るのはアンと親交のあった環境社会学者Nancy Pelusoさん。「でも、それを殊更に騒ぎ立てる人でも、なかったんです」

アンの仕事で最も後世にまで長く残る遺産、それはインドネシアのマイクロファイナンス事業立ち上げを支援したことだ。彼女は1988年から1992年までこの仕事に携わった。―信用の乏しい事業者に小口融資を付与する業務が今みたいにサクセスストーリーとして確立する、もっと以前の話だ。現実に人々がどのように働いているのか、実態を調べたアンの文化人類学研究はインドネディア国営庶民銀行(Bank Rakyat Indonesia)の策定した方針と情報を擦り合わせる上で一役買ったと、同行元勤務の経済学者Pattenさんは言う。「このプロジェクトの成功には彼女の仕事がかなり貢献していたと言ってよいでしょう」。マイクロファイナンス動向追跡団体「Microfinance Information eXchange Inc.」によると今日インドネシアのマイクロファイナンス事業は利用会員3100万人。その貯蓄人口は世界一を誇る。

母親がインドネシアで貧しい人々を助けている時、 7000マイル(約11,300km)離れたシカゴではオバマがちょうど地域のオーガナイザーとして同じような仕事に明け暮れていた。アンは息子の転職を心から喜び、それからは口を開けば決まって何はさておき子どもの近況報告だった、と友人たちは言う。「オバマがどの学校に行ったか、仲間内で知らない人はいませんでしたよ。どんなに優秀かも、みんな知ってました」―アンの友人Georgia McCauleyさんはこう懐かしむ。

アンはしょっちゅうマイクロファイナンスの仕事でインドネシアを離れ、ハワイやNY—1980年代半ばには一時パキスタンにも滞在した。娘と2人、友だちのアパートのガレージや空き部屋に泊めさせてもらったこともある。旅先では宝物を集めた。―宝物と言っても自分に理解できるストーリーを備えた趣味の良い品々である。例えばジャワの伝統に則り奇数のカーブを施したアンティークの短剣や風変わりなバティック染め、田んぼの野良仕事で使う帽子なんかだ。1984年ハワイに帰る前に友人Deweyに宛てアンはこう手紙に書いている。「娘と2人分の荷物を全部機内に積み込もうと思ったら、らくだのキャラバンと象が1頭か2頭要るわね。でもそれじゃあ航空代理店が泣き喚くだろうし」。今もオバマのシカゴの自宅にはカンザスから送られてきた母親の矢じりのコレクションと一緒に、「どう使って良いものやら見当もつかないバティック更紗がいっぱいに詰まったトランクがいくつもある」(オバマ)という。

 
Batik (via)


1992年、母親はついに博士論文を終わらせた。仕事の合間を縫って20年近くかけて書き上げた労作である。分量は1000ページにおよび、インドネシアにおける野鍛冶の仔細な分析が記されていた。「完成には程遠い」とアンが言う用語集だけで24ページ。苦労の末の学術書は母親とアドバイザーのDewey氏、そして「母親が野外調査の時も滅多に文句を言わなかったバラクとマヤ」に捧げた。

1994年秋、アンは友人のPattenさん宅でディナーの途中、胃に痛みを覚えた。地元の医師の診断は消化不良。数ヶ月後ハワイに戻ると、卵巣・子宮がんと診断された。1995年11月7日、アンは52歳で他界した。

亡くなる前にアンは息子の回顧録(『Dreams from My Father』)の草稿を読んだ。 本はほとんど全部と言っていいほど父親の話である。友人の中にはこのフォーカスに驚いた人もいたが、彼女は意にも介さない風だった。「一度もそのことで文句は言いませんでしたよ」とPelusoさんは言う。「あれは彼がどうしても自分でいつかは答えを見つけなきゃならないことだったんだよって、そうひとこと言っただけでした」。アンも息子も2人に残された時間が長くないことは、知る由もなかった。

自分が犯した最大の過ちは母親の死に目に傍にいてやれなかったことだとオバマは言う。ハワイに飛んで、太平洋に遺灰を撒く家族を手伝い、そして彼女のスピリットを胸に抱いて選挙で全米を駆け回った。「バラクが笑うと」とPelusoは言う。「それはもう、アンそっくりなんです。顔がパッと明るくなるところなんて、アンもそうだったなって」

アンの死後、娘は生前書き残した自分史があるはずだと思い、遺品を掘り返して探した。「自伝はずっと本当に書きたがっていましたから」(ストロ-ンさん)。やっとのことで探し当てた人生録の書き出しは、しかし、2ページにも満たない。それ以上はもう、どこをどう探しても見つからなかった。時間切れだったのだろうか。それとも抗がん剤で精根尽き果てていたのだろうか。「理由は分かりません。きっと、自分でも手に負えなかったんだと思います」とストロ-ンさんは語る。「伝えたいことがあまりにも多過ぎて」 □


執筆:Amanda Ripley(ホノルル)/取材:Zamira Loebis、Jason Tedjasukmana(ジャカルタ)

translated texts here are copyrighted to the translator, **satomi ichimura

Part 1 / 2 / 3

[Original Article: The Story of Barack Obama's Mother - TIME]

---

翻訳を終えて見た映画に、こんな一節があった。
As I finished translation, I saw this movie and found this passage;


"Guess Who's Coming to Dinner (1967)"(邦題:『招かれざる客』)

(作品)オバマ誕生の6年後の1967年、サンフランシスコが舞台の映画。差別撤廃に一生を捧げる新聞王の愛嬢が新聞配達の息子と旅先のハワイで恋に落ち、実家に結婚の承諾を求めにくる。一流の医師に育った婿役はシドニー・ポワチエ、父親役は闘病を押して本作に挑み撮影終了から17日後にこの世を去ったスペンシー・トレイシー。恋人キャサリン・ヘップバーンとは最後の共演となった。

(上の場面[参考])
父「子どもが将来苦労することは考えたのかね?」
婿候補「はい。苦労するでしょう。でも結婚するからには子どもは欲しいですね」
父「娘も同じ気持ちに?」
婿候補「彼女は『子どもは未来の大統領よ。国が明るくなるわ(色とりどりの政権になる)』と言ってくれました」
父(無言で頷く)
婿候補「お嬢さんとはまだハワイで知り合ったばかりですから、きっとおとうさんの教育の成果です」
父「君はその問題についてどう思うんだい?」
婿候補「僕はそこまでは…国務長官ぐらいかと…」(父親が冗談にムッとしてるのを見て咳払い)

Comments

  1. 翻訳、お疲れ様でした。
    キング牧師の演説の翻訳と並んで、素晴らしいですね。

    ReplyDelete
  2. う、ありがとうございます、また半年ぐらいかけて、ちょこちょこ直しますね。

    ReplyDelete

Post a Comment